平成29年8月18日~8月28日 読書ログレビューまとめ

皆様おはようございます。ピースです。
平成29(2017)年ももうあと4か月になろうとしています。
これから9月にかけて、今までにも増して忙しくなるであろう年度後半への備え、そして論文提出や口頭発表もあり大変ですが、なるべくブログの更新も定期的に続けたいと思います。

さて、8月下旬の読書ログまとめです。

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地下空間と水害について、土木学会誌8月号より(2)

皆様こんにちは。ピースです。
ここ最近の東京は、雨が続いて気温も一気に下がったかと思えば、また急激に蒸し暑さを感じるようになりましたね。
私も多少喉を痛めてしまいましたが、このブログをお読みの皆様も、体調管理にはくれぐれもお気をつけください。

さて、本題は土木学会誌8月号特集「地下街は快適ですか-いま、都市の地下空間を考える-」からの引用によるお話の続きです。

今回は神戸学院大学現代社会学部社会防災学科准教授/土木学会地下空間研究委員会顧問である中山学先生による、「安全・安心な地下空間の創造-都市域における水防災のあり方-」からです。

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フィードバック

皆様おはようございます。ピースです。

昨日今日は、部署異動があってからはじめての出張、国交省の事務所の打ち合わせと現地踏査です。
このブログ記事については、ホテルからの更新です。
今後しばらくはかなり多忙ゆえ、普段こちらを見てくださっている皆様へのブロサーのいいねやツイッターのRT、はてブ等の支援ペースが下がるかもしれませんが、それでも極力定期的にやっていきますので、何卒ご了承くださいませ。

さて、前回取り上げた地下空間と水害の件もまだまだ書きたいことは多いのですが、今日はいったん休憩ということで、久々に政治色も専門色もほぼゼロの話題。

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地下空間と水害について、土木学会誌8月号より(1)

皆様こんにちは。ピースです。

休暇が水曜で終わったかと思えば、2日勤務でまた2日休みでした。
家では高校野球が面白い試合ばかりで、なかなか勉強もこのブログの記事起こしも捗りませんでしたが、明日から1週間、また本格的に仕事ですね。

さて、本日の本題は、土木学会誌8月号の特集「地下街は快適ですか-いま、都市の地下空間を考える」からです。

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平成29年8月8日~8月17日 読書ログレビューまとめ

皆様おはようございます。ピースです。
休暇明けとともに、私自身の人事も含めて、色々と社内環境が変わりました。
これから忙しい時期という中で新しい雰囲気、そして仕事に慣れるのは大変ですが、頑張っていきたいと思います。

さて、休暇中(といっても、今回のレビューはいずれも休暇前から読んでいた本のものですが)の読書ログまとめです。
今回は3冊中2冊が講談社ブルーバックスの本ということで、理系色が濃いですw

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【参加報告】第31回戦歿者追悼中央国民集会 & 第3回 靖国の心を未来へ!感謝の心をつなぐ青年フォーラム

皆様こんにちは。ピースです。
私も、休暇もいよいよ今日までになりました。
休暇後~9月は、かなり多忙な1月半になりそうです。
ただ、任務がたくさんあるというのは、それだけ幸せなことでもあると思います。

本題ですが、前エントリにて申し上げていた通り、昨日8/15は靖国神社で、午前・午後とイベントに参加してきました!

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「和の心」このブログタイトルのキーワードに込めた意味を、今こそ見直してみる(3)-「足し算の解」編

君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
 -君子和而不同、小人同而不和。

(立派な人間は、人と調和するけれども付和雷同はしない。つまらない人間は、付和雷同するだけで人と調和することがない。)

「和すること」と「同ずること」は、似て非なるものです。「和」は、調和の「和」。一方、「同」は、雷同の「同」です。知徳を備えた立派な人間である君子は、周囲の人々と調和してなごやかに付き合います。でも、しっかりとした主体性をもっているので、決して軽々しく雷同することはありません。
この「君子」と正反対なのが「小人」です。「小人」は、元来は、身分の低い者を指しますが、そこから派生して、人格の低い者、つまらぬ者をいいます。知徳に書けるつまらない人間である小人は、自分自身の考えを持たないので、ただ妄りに迎合するばかりで、周囲の人々とうまく調和することができません。

(孔子『論語』/八木章好『心の「ツボ」に効く漢詩・漢文』より)

ディスカッションとダイアローグ

よく、話し合いのことを「議論」とか「ディスカッション」と呼びます。そのための練習で「ディベート」という方法もあります。
ディスカッションの語源は、「徹底的にたたく」という意味のことばです。また、ディベートの語源は「たたかい」です。
いずれも、民主的に「数の勝者」になるために必要な対立型コミュニケーションです。
すべてがそうとはいえませんが、会社の会議でも、ボランティア活動の集会でも、果ては小学校の学級会でも、その力はを最優先に試されていると言っても過言ではありません。

しかしながら私は、「必ず勝ち負けが存在する」、そんな対立型コミュニケーションからから脱皮し、その段階を越えて、次世代は「共感・共生型コミュニケーション」に進化していくべきだと考えています。

たたく、たたかう、という語源を持つ行為では、それは成し遂げられません。
そのための方法のひとつとして、「ダイアローグ」という話し合いの概念にスポットを当ててみたいと思います。

〇と△では似ても似つかない形ですので、なかなか共通点が見当たりませんね。そのため文字通り、「相手をたたき潰す」ディスカッションが激化します。
ここでダイアローグ(対話)をするには、「〇と△の両方を満たすものはないだろうか」と考えることから始めます。

たとえば、平面図としてとらえている〇と△を、立体的に見るとどうでしょうか、〇や△ではなく、どちらも実は円錐という立体だったとしましょう。すると、まったく相容れないように見えた〇や△との間に、共通点を見出すことが可能になります。

「本質は両方とも円錐だったのに、〇支持派は下からだけ見ていたのではないか、一方の△支持派は横から見ていたのではないか」
つまり、結局のところ両者は同じものを違う角度から見ていただけだった、その事実に気づくことができるようになり案す。これに気づくと、それまで向かい合って対立していた集団は、たちまち同じ方向を向くことができるようになります。

(内山雅人『天才のノート術 連想が連想を呼ぶマインドマップ <内山式>超思考法』より)

皆様こんにちは。ピースです。
明日は8/15ですね。

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今年も参加しました!第9回「土木と学校教育フォーラム」皆様にも考えてほしい、防災行動に関する問題も

皆様こんにちは。ピースです。
休暇の真っただ中ですが、都内は大荒れはしないものの、なかなかすっきりしない天気が続きますね。

さて、今日は一言だけの前置きでしたが、本題。
このブログ、多くの記事からリンクを貼り続けているメインエントリをはじめとして、”Military”と”Civil”という対比をしながら、活動報告や本からの引用を通して、私の考えを取り上げていますね。
というわけで、先日の活動報告が「自衛隊」への感謝の気持ちを伝えるキャンペーンという、(少なくとも公的組織としては)Military面のお話だったので、今回はCivil的な活動報告のお話をしましょう。
(そして、前エントリに申し上げていた「『資料』を取りに行くだけに会社に立ち寄った」というお話も、これに関する資料のことですw)

去る8/6(まさに、上記の自衛隊キャンペーンの次の日ですね)は、第9回「土木と学校教育フォーラム」に参加してきました!

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「和の心」このブログタイトルのキーワードに込めた意味を、今こそ見直してみる(2)-「平和」編

「災害死史観」と「紛争死史観」という違い

彼ら(ブログ筆者注:欧米をはじめとする外国人の方々を指しています)の死は紛争で殺された死であり、恨む相手がいない死とはかなり違うものである。愛する者は他人に殺されたのであるから、恨みを残して死んでいったに違いない。したがって、残された者は、死んでしまった愛する者のために、殺した相手を恨んで恨んで恨みぬき、そして殺した相手にいつかは復讐するという誓いを立てなければ、この死を受容できるはずがない。彼らの死の受け止め方は、論理的に考えて、そうならざるを得ない。
私たち
(ブログ筆者注:もちろん、上記の「彼ら」に対応して、日本人を指しています)の死は、普段は恵みをもたらしてくれる自然の気まぐれで死んでいったのだから、恨む相手がいないし、復讐のしようがない死である。これは、無理やりもたらされた死への怒りをぶつける対象がないという、本当に悲劇的な死の受容である。
この受け入れるしかないという厳しい死の受け止め方が私たちに、東日本大震災でも阪神淡路大震災の際にも、世界中の人々が驚愕するような、冷静な死の受け止め方と見えるような態度をもたらしたのである。この死は諦めて受容するしかない、絶対的に悲しい死である。しかし、それこそが「災害死史観」をもつ私たちと、恨みぬいて復讐の誓いを立てることでその死を受容せざるを得ない「紛争死史観」を持つ彼らという違いを生んでいるのである。

日本人に理解できない正義の殺戮

「西欧人には理解できても日本人には理解できない領域」があるとでも考えなければ、理解できないことがある。たとえば、「正義の実現のためには人命という犠牲を伴うことがあってもやむを得ない」という西欧人が持つ感覚はわれわれにはない。

何を経験し、何を経験しなかったか

このように、経験の差をみてみると、われわれ日本人だけが、何か隔絶した経験の違いをもった民族だと考えられる。

(大石久和『国土が日本人の謎を解く』より)

皆様こんにちは。ピースです。

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