「ある程度まとまった長さの」文章を書くことの重要性

脳というのは、基本的に省エネ志向であり、頭を使わなくてすむならば、なるべく使わない方に流れます。それはある意味で本能的なものであり、簡単にあがなえるものではありません。
結果的に、新しいテクノロジーに何も考えずに身を浸していると、どんどん頭を働かせなくなってきます。

このことは、私が最近使っているFacebookで痛感しました。
Facebookで何かを書き込むと、他の人からコメントをもらえる場合があります。そのコメントに対して、私もコメントを返すことが出来るのですが、どうにもうまく言葉にまとまらないとき、つい「いいね!」ボタンをクリックして済ませてしまいます。それだけで、自分はそのコメントを読みました、そして好感を持ちましたということを伝えられるので非常に便利です。しかし、私の頭に浮かんだ「もやもや」は言葉にされることなく、消え去ってしまいます。苦労させずに済んだ代わりに、何か微妙なものが全て失われてしまったわけです。
便利さの対価として私たちが支払っているものには、充分に注意する必要があるでしょう。

(倉下忠憲『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』より)

皆様おはようございます。ピースです。
東京も昨日は蒸し暑さを感じる中の本降りという天候で、本格的に梅雨の訪れを感じますね。
くれぐれも、体調に気を付けていきましょう!

さて、今日は久々に、政治色も専門色も薄めな話題です。


冒頭の引用は、昨年末の記事で別の本から引用しました倉下氏の著書からですが、これを受けて、拙ブログをある程度ずっと読まれている皆様方に、このような質問をしてみましょうか。

このブログ、1エントリあたりの字数って、どのくらいだと感じられますか?

大雑把なところを申し上げますと、前回のような引用のほとんどないエントリで、最後のランクリ等の案内を除いて2000~3000字です。
そして、他人の文章をガッツリ引いているエントリでも、4000字を超える場合は、大抵複数記事に分割していると思います。

私は中学高校の頃は、「暗記」や「計算」は得意でも、「作文」や「論述」はきわめて苦手でした(だから、これまでもたびたび、自分自身のことについて「理系脳」という言い方をしてきたわけですが…w)。
で、前にも書いていたと思いますが、実は大学学部の頃から、当時全盛期だったmixiやら、このブログの前に開設していたブログやらは持っていたのですが、いずれも半年も持たずに放置または閉鎖ということを繰り返していました。
でも、こちらでもちらっと書きました通り、そんな私が、こんなふうに結構な長さの文章を自分の言葉でまとめてブログにしていますし、それも政治色全開、いわゆる「タブー」にも思い切り踏み込むような路線で来ているわけですから、本当に、人間どう変わるかは分からないものです。

私が変わるきっかけになったのは何かと言いますと、やはりTwitterです。
140字という短い文で、今やっていることとか、自分の気持ちとかを手軽に発信できるので、数日更新が空くということはあっても、放置にはならずに続けられたと思います。

ただ一方で、大学院生の頃はまだ、それだけでも満足していたのですが、どうしても「アウトプット力をつける」ために、Webという誰でも見られる場の利用を意識するようになると、どことなく物足りなさを感じ始めたんですよね。
「断片的な情報」から自分の考えを書き並べていても、なかなか「自分のものになる」感覚がないんです。
つまり、「体系的な知識」として結晶化されないですし、改めて考えると、その結果として矛盾した発言をしたことも今よりずっと多かったでしょう。

そう考えると、引用元の倉下氏の著書にもある、その頃からFBやmixiのつぶやき等でもできるようになった「いいね」ですが、敢えてそれに頼らずに「コメントを付ける」というのもそうですし、また自分からの情報発信について言うと、2000字以上の文章を週1回以上の頻度で書くというのは、相当頭を使います。
でもそれだけ、このブログに書いたことって、しっかり「自分で身につけた知識」になった感じが分かりますし、外出先でもこれをスマホ等で見ることを考えると、一つの「データベース」としても活かせますよね。

また、それだけ工夫することで、新しい発見もあるでしょう。
例えば、私の場合は「一つの話題を深く掘り下げる」だけにこだわり過ぎて、なかなかブログの記事にできる程度までまとまった長さの文章が書けないきらいがあったので、新たに「複数のアイデアや知識を組み合わせる」という考え方を取り入れられたことでしょうか。

さらに、Twitterも最近は拡散のみだった「RT」だけでなく、自分のコメントが加えられる「引用ツイート」ができるようになったので、これで書いた内容が、元のツイートの発信者をはじめとして、また「いいね」をもらったり、再度RTで拡散されるなどすることで、より記憶に残る感覚があります。
さきほど「いいね」に頼らずに「コメント」を…ということも書きましたが、こちらはこちらで、自分の持論だけではなく、発信源の主張を理解したうえで、自分の言葉にする必要があるということで、また別の難しさもあると考えられますね。

まあなんにせよ、「情報機器の発達で、人間は『考える』という武器を失う」というような言い方をされる方もいらっしゃいますが、「エスカレーターやエレベータを使わずに階段を歩いて体力をつける」というのと同様に、「安易な発信手法に走らないことで、考える力を鍛える」ということを実践していきたいものですね。

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