【参加報告】黒田裕樹の歴史講座 第59回「東條英機」(2)

皆様こんにちは。ピースです。
4月に入りました。
私の方も、繁忙期にやるべきことが概ね片付き、気分一新で仕事にも自分の勉強にも取り組み始めたところです。

本題は、前エントリの続き、3.コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩の後半以降を取り上げるのですが、最初に申し上げておきます。
5.東條英機元首相の遺書 については、前エントリの更新時点では何か書こうと考えていたのですが、その後あまり私の独自考察を加えない方が良い箇所だと考え直したので、本エントリの締めに講座のレジュメにあるものと同じ全文が書かれたWebページへのリンクを貼ることにしました。


レジュメでは3.の中で、「ハル・ノート」の話があるのですが、その最後の方に、こういうことが書かれています。
しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の石油禁輸の令を出すまでもなく、ハル・ノートによってアメリカは我が国に対して侵略戦争を仕掛けたも同然であり、わが国が対米開戦に踏み切ったのも無理からぬことではありました。
20世紀型の「戦火を交えない戦争」は、ズバリ「経済戦」といえますよね。
引用のケースではまさに、この経済封鎖が「戦火を交える戦争」の原因となってしまったわけです。
そして、この「経済戦」が大規模化・長期化したものこそ、大東亜戦争後の冷戦、中でも特に「ベルリンの壁」に象徴される、ということです。

ではここで、「21世紀型の『戦火を交えない戦争』とは何でしょうか?」

私は、この「経済戦」に、「情報戦」という新たな要素が加わるのではないかと考えています。
ですから、それに対する「予防策」であると同時に、イザというときのための「論理武装」の種を蒔くという意味で、このブログでは「ネット言論」というカテゴリを立てていますし、サブカテゴリとしては結構数多くのエントリをあげているわけです。

以上が「戦争の始まり」の背景でしたが、では次に戦中から終戦までの東條内閣を中心とした動きを見てみましょう。
ここで、前エントリの後半で、3.の最初の一文をレジュメから引用していました。
しかしながら、これに関しては、「このあたりで黒田先生がこういう話をされていた」と書いただけで、その具体的内容については取り上げませんでしたね。

で、そこで私が申し上げたかったことは何か?
「韓国が被害者で日本は加害者」という考え方を100%否定する立場に立った内容ではない
ということと、方向性としては同じなんです。

つまり、

この戦争に対する「東亜侵略論vs東亜解放論」という解釈の対立で、後者を採る立場であっても、それは「日本の対応に何も問題がなかった」ということを主張するわけではない

ということです。
以下、途中まで要約引用とさせてもらいますが、

  • 戦争は始めることよりも「終わらせること」の方が重要で、日露戦争の時の日本側にはそれができたが、大東亜戦争ではそれができなかった。
  • その理由の一つは「人材の差」である。日露戦争の時には明治天皇の信任を受けた元老が存在していた。
  • しかし、昭和に入るころには元老の多くは死に絶え、その権威も低下したことで、統帥権干犯の問題が起こった。
  • 当時の野党であった立憲政友会が軍部の主張を支持し、当時の内閣を攻撃したことによって、「内閣は軍に干渉できない」ということを政党人自身が認めたことになり、結果的に我が国は軍部の独走を事実上止められなくなった。

という感じです。
最後の太字で強調した項目に関連してですが、
当時、戦争を思いっきり煽り立てていたのは、何を隠そう、あの朝日新聞です。
ここで「大マスコミ」と「無能な野党」が出てくる点で、方向性は真逆ながらも、前エントリの「歴史は繰り返す」という言葉、よく言ったものだなあと思うのですが、ここでこれ以上申し上げるのも…なので、止めておきますねw

以下は、その次の箇所から引用。

これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力のための「政略」が期待できるわけがありません。結局、わが国は大東亜戦争では戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブもとることができませんでした。

さらに、もう少し先の箇所から。

我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのはなぜなのか」ということこそが、歴史教育で学ばなければならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、われわれは絶対に見失ってはならないのです。

皆様は、この部分について、どのような感想をお持ちになるでしょうかね?

私は以前、伊勢雅臣先生の講演会の参加報告をしたエントリで、「希望の同盟」は「Win-Winの関係を築ける可能性を持つ者同士の同盟」で、「憎悪の同盟」は「Win-LoseかLose-Winの二択でしか考えられない者同士の同盟」という解釈をしました。

で、私が考えたのは、
ここの「戦争に勝つ」という言い方の中には、どことなく(Win-Winとかそんな都合のいいことまでは言えなくとも)相手にとっても”Lose”にはならないという結末」を示唆する部分があるのではないか
ということですね。
(念を押しておきますが、これは単なる言外の含みに関する独自考察です。
当たり前ながら、戦争である以上、「外交上の対話で終結させること=Loseになる者(国)が出ない結末にすること」では全くありません。)
今回の講座は、前回「日韓のほんとうの歴史」よりさらに参加人数が増え、東京講演は30名の大台に乗りました。
そして、内容もそれだけ、現代日本に生きる私達へのメッセージ性の強いものでした。
「東條英機という人物、そしてそれを取り巻く戦時中のさまざまな出来事をどう評価するか」、それも大事なことですが、評価するためには史実をしっかりと知ることが必要ですね。

というわけで、最初に述べた東條元首相の遺書をもって、今回の参加報告の締めとさせていただきます。

東條英機元首相公的遺書全文(東條由布子の「凛として愛する国に」)

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余談(重箱の隅をつつくような話なので、知的好奇心旺盛な方だけお読みくださいw):

「戦略」「政略」という単語が出て来たので、以前の回の参加報告で書いた言葉の定義と使い方について、少しばかり補足です。
「外交で最終的にものを言うのは、ズバリ『戦略』である」
という一文を書きました。
私は、この「戦略」という単語は、ここでの定義で言うなら「政略」のほうが正しいと考えます。
ただし、一方で仮に今の日韓を、本文に述べた「戦火を交えない戦争状態」と解釈するなら、「戦略」でもあるともいえますね。

一方で、そこでも取り上げた、「平安後期の政治史 ~院政と平氏政権」回の、6.「戦略」が理解できなかった「戦術」の天才 の「戦略」という単語については、これは「戦争に勝つための総合的あるいは長期的な計略のこと」という注釈がついているので、ここの定義でも「戦略」が正しいです。
でも逆に、ここの話には源頼朝の政治家としての一面も出ていますから、「政略」を含む部分があるわけです。

「これ、なんでこんなややこしい話になるんだ?」と考えたのですが、
その理由はおそらく、”strategy”という英単語に対して、一般的に「戦略」という訳語を当てられているからでしょう。
strategy

  1. a planned series of actions for achieving something(何かを達成するための一連の行動計画)
  2. the skill of planning the movements of armies in a war (戦争で軍隊を動かす計画を立てる能力)
(LONGMAN英英辞典より、和訳は拙ブログ筆者)

今回の講座のレジュメにおける「戦略」の定義は、2.の方に限定されている、ということです。
一方、「政略」1.で、「何か」にあたるものが政治・経済・外交上の目的、ということですね。

で、私がちょうど今、基本情報技術者の勉強をやっているものですから…
ITパスポートもそうなのですが、情報処理技術者試験の出題範囲は、「テクノロジ(Technology)」、「ストラテジ(Strategy)」、「マネジメント(Management)」という3分野に大別されます。
で、ここのストラテジという分野で扱われる内容は、もちろん「企業戦略」、つまりITの利活用も含む経営や知的財産権法・労働関連法などの題材で、この英英辞典の語義でいうと1.の方になるわけです。

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