【参加報告】 第64回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その五」(2)

皆様お疲れ様です。ピースです。
一時期は3日に1回ぐらいだった更新が、週1ペース以下どころか2週に1回ペースになってしまっているこのブログです。
今月来月は、業務と資格試験の勉強を優先度高めで、最低でもこのペースよりは落とさないように何とか記事を書いていき、年度末繁忙期を切り抜けたら、今ネタにしたいと思っている引用も含めて、更新頻度を上げていくつもりでいます。

本題は、間にスタプラの記録報告を挟みましたが、黒田裕樹先生の歴史講座の報告の続き。

【参加報告】 第64回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その五」(1)

今回は主に、5.日露戦争の世界史的意義から取り上げます…が、
その前に配布されたレジュメから、そこまでの流れを見てみましょうか。

1.は、前回取り上げた箇所の後、樺太・千島交換条約のお話で締められています。
2.は「大津事件」という、我が国が判断を誤っていれば国家存亡の問題になっていたであろうが、結果的にその政府の対処によって日本を近代国家として認めてもらえることとなった歴史上の出来事が取り上げられ、その後の陸奥宗光、小村寿太郎による不平等条約の解消まで。
3.は日清戦争とその後の下関条約。
4.は日清戦争後のロシアの南下、そして「日韓のほんとうの歴史」回でちらっとキーワードだけ取り上げました「乙未事変」など朝鮮半島の動向、さらには日英同盟も含めて。
そして、5.の日露戦争の話につながります。

うーん、講演からもう1ヶ月も経ってしまいましたので、記憶がだいぶおぼろげになっていますが、レジュメから何箇所か取り上げてみますね。

勢いに乗ったロシアは、朝鮮半島の南部にあり、我が国の対馬を挟んで対岸の馬山浦(ばざんほ)や鎮海(ちんかい)湾、さらには対馬の竹敷(たけしき)港までをも目標として定めました。

もしこれらの地域をロシアに奪われれば、かつての元寇のように、我が国が外国からの侵略を受けるのは目に見えていました。ましてや、相手は世界有数の軍事国家であるロシアであり、まともに戦えば勝ち目は全くありません。

ロシアの脅威に対し、我が国は戦争を回避するため、懸命に外交努力を重ねました。例えば伊藤博文が、ロシアの満州における支配権を認める代わりに、朝鮮半島にはロシアが手出しをしないという「満韓(まんかん)交換論」(または「日露協商論」)を展開しました。

例え満州はロシアの支配を許したとしても、朝鮮半島における安全保障だけは死守したい、という我が国にとっての苦肉の妥協案でしたが、国力や軍事力に勝るロシアが承知するはずもありません。

ーーー

ロシアによるこれ以上の南下政策を何としても止めなければ、我が国の未来がないことを悟った政府は外交交渉をあきらめ、シベリア鉄道の全通が迫った明治37(1904)年2月に、両国がそれぞれ宣戦布告し、ついに日露戦争が始まりました。

だいぶ端折ったので、引用箇所だけでは細かい経緯など伝えられないところもありますが、こういうお話を。
今回は「外交史」を取り上げたシリーズということで、「戦争」というのも、一つの「外交」のかたちです。
本ブログではもう何度も引いている言葉である「歴史に学ぶ」を実践するためには、「なぜ、『戦争』という選択肢を選ばなければならなかったのか」という問いに対し、当時の時代背景を分析することで回答をつくることが必要になります。
これに関しては、東條英機の回(リンクは後ほど)にあった、大東亜戦争についても同じことが言えますね。

さて、この日露戦争、皆様ご存知の通り、当時の世界の予想に反して日本が勝利を収めることとなったわけです(もちろん、このあたりもレジュメには乃木希典や東郷平八郎の活躍など、詳細に書かれています)。
というわけで、先ほど取り上げた大東亜戦争との「結果の違い」を生み出したものは何だったかということが書かれている箇所を引用しましょう。

ところで、戦争は勝利を得るために戦うのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それが可能なのは政治家だけなのです。

この大原則は日露戦争においても同様であり、国力の限界を見極めていた日本政府は、長期戦となって我が国が劣勢と長期戦となって我が国が劣勢とならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていました。

(中略:ここには、その仲介役にアメリカを選んだこととその経緯および過程が書かれています)

改選前から講和への道を確保しようとした政府と、現場において命がけで戦い、勝利をつかみ続けた軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において、戦局が有利なうちにロシアとの講和を結ぶことが可能だったのです。

戦争は、始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、それを実現できたのが日露戦争であったのに対し、そうならなかったのが、いわゆる「昭和の悲劇」でした。

「昭和の悲劇」と書かれているのは、皆様すでにご存じの通り、日本の敗因に軍部の暴走があった大東亜戦争(太平洋戦争)です。
詳細は、黒田先生の講座の「東條英機」回でも取り上げられています。

【参加報告】黒田裕樹の歴史講座 第59回「東條英機」(1)
【参加報告】黒田裕樹の歴史講座 第59回「東條英機」(2)

今回はその中での私の考察を取り上げてみましょうか。

私は以前、伊勢雅臣先生の講演会の参加報告をしたエントリで、「希望の同盟」は「Win-Winの関係を築ける可能性を持つ者同士の同盟」で、「憎悪の同盟」は「Win-LoseかLose-Winの二択でしか考えられない者同士の同盟」という解釈をしました。

で、私が考えたのは、
ここの「戦争に勝つ」という言い方の中には、どことなく「(Win-Winとかそんな都合のいいことまでは言えなくとも)相手にとっても”Lose”にはならないという結末」を示唆する部分があるのではないか
ということですね。
(念を押しておきますが、これは単なる言外の含みに関する独自考察です。
当たり前ながら、戦争である以上、「外交上の対話で終結させること=Loseになる者(国)が出ない結末にすること」では全くありません。)

今読んでみても、私のブログでは珍しく、伝えたいことを雰囲気で書いた(良く言えば含みが多い、悪く言えば曖昧な)感想ですね。
後から読み返してみても、「いかに後世の者が言葉で取り繕って解釈しようが、『戦争』に”Win-lose”以外の結果は有り得ないのかなあ」とも思ったこともありましたし。

が、それはともかく、今回の講座に参加して、「(Win-Winとかそんな都合のいいことまでは言えなくとも)相手にとっても”Lose”にはならないという結末」というフレーズにあてはまるものがあるとすれば、やはり大東亜戦争の時と対比されるこの日露戦争の終結のかたちこそが、その模範解答の一つになるのかなあと感じました。

というわけで、この黒田先生の歴史講座、今回も非常に面白く、かつ学びの多い内容でした。
次回、第65回は「日本外交史 その六」です。
詳細は黒田先生のブログ、右カラムの次回予告をご参照ください。

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