土木史のお話-土木学会誌より(3)

皆様こんにちは。
参院選から1週間が経ちましたが、東京はもう2週間後に都知事選ということで、これからまた注目すべき動きが出てきそうですね。

さて、18歳選挙権の話題を取り上げる前に書いていた、土木史のお話の続きです。
同じ土木学会誌4月号から、今日は過去の2エントリで引用していたものとは、もう少し違う趣向の記事を取り上げてみたいと思います。

以下は、和歌山県立博物館主任学芸員の前田正明氏による、「歴史学と土木史との協業-地域に根差した地震津波研究を目指して」より。


日本は、繰り返し大規模な自然災害を経験してきた。近年は、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災といった自然災害が頻発しており、災害史への関心も強まっている。筆者が住む和歌山でも、近い将来起こるとされる東海・東南海・南海の三連動地震や南海トラフ巨大地震への関心が高まるとともに、東日本大震災の半年後である2011年9月に紀伊半島大水害を経験したこともあって、過去の自然災害を見直し、防災につなげようとする動きも活発になっている。

こちらでも書きましたが、改めてもう一度。

今年は皇紀2676年。
ご存じない方が聞けば、「西暦に660を足すと皇紀になる」というだけでも、「ええっ!?」って思われることでしょう。

確かに、これだけの間、日本という国の形が受け継がれてきたことだけでもすごいと思いますが、
私は国土の条件だけでいえば、それは決して有利ではない、というかむしろ不利な条件下にある中でのことだったと考えれば、もはや本当に奇跡というレベルなんだと考えています。

で、日本の歴史の特色は何かということについて考えますと、
確かに「他国との交流と戦い」も数々ありますが、それ以上に「自然との共存と戦い」を感じさせるエピソードが色々あることなのではないかなあと思っていました。
ただ、小~中学校ではあまりそういうことに焦点を当てて学んだ事項がない(私が覚えていないだけかもしれませんが)ので、ここでは土木史という方向でそれらの事項を取り上げてみましょう。


「災害の記録」は、紙(文書)・板(板書)・石(記念碑)などに記されることで残されてきた。古くは古代律令国家が編さんした歴史書である『六国史』に、南海地震の記述が見える。720(養老4)年舎人親王らによって編さんされた、わが国最初の勅撰国史である『日本書紀』巻二十九には、684(天武天皇13)年10月14日に地震(白鳳南海地震)があり、翌年牟婁温泉の湯が止まった、と記されている。

確かに、「災害の記憶」は古くから残されている。では、その記憶が災害教訓として後世に活かそうと意識されるのはいつ頃のことであろうか。これまでの調査で、少なくとも1707年の宝永地震津波以降、そうした意識の存在が確認されている。ここでは、二つの事例を紹介する。
白浜町富田区には、宝永地震津波の恐ろしさを後世の人々に伝えようとする、「津波警告板」が残されている。表面は、画面いっぱいに漢字とカタカナ混じりの文字で、富田付近の被害状況、津波来襲時の避難方法などが記されている。高瀬村(現在の白浜町富田)の住人に依頼された草堂寺住職の松岩令貞が板に記したものである。文章の最後に、この板を飛鳥山にあるある飛鳥神社に納め、毎年行われる祭礼で神社に集まった村中の人たちに読み聞かせるように、と記している。


前半部分から。
冒頭にリンクを貼ったエントリで取り上げた、青山士と宮本武之輔、そして本ブログのメイン記事で取り上げている八田與一と、本ブログでは土木人物アーカイブスにも載っている3人の土木技術者について取り上げてきました。
が、技術者というのが比較的ニッチな分野ということもあり、そういう分野で有名な歴史上の人物が現れるのは、大体は近現代ですよね。
それ以前に関しては、やはり「個々の技術者の活躍」が分かるものが残されていることはどうしても少なくなるんでしょう。
ですが、それでも当時の時代背景や、その時代に生きる人々が何を考え、「自然との共存と戦い」を象徴するものを創り上げたかがわかるというのは、素晴らしいことだと思います。

そして、後半部分について。
以前、熊本地震に関する一連の記事の中で、「ハード対策」と「ソフト対策」という面に注目したエントリを立てました。
そういう分類が当時からあったものかどうかは分かりませんが、当時の防災に関するソフト対策については、「警告板」という形でなされていたんですね。
さらに、祭礼でそれを読み聞かせるというのは、おそらく当時としても人々の意識を高めるのにはこれ以上ない方法だったんだと考えられますね。

で、「ハード対策」については、この後に「紀伊藩による防潮堤の築造」という項目を設けて詳しく説明されており、ここも非常に興味深い内容が含まれているのですが、生憎ながらこちらでは省略させていただきます。


先人たちは、風化してしまった「災害の記憶」をよみがえらせる営みを行うことで、私たちにその記憶を伝えてくれた。その場合、野外にあり、いつでも誰でも見られる記念碑の果たす役割は大きかったと考える。私たちは、今回の調査でそのことを再認識し、調査成果を共有する取組みとして、調査対象地域の住民を対象にした現地学習会の開催や小冊子の全戸配布を行っている。記念碑に記された「災害の記憶」を未来に伝えようとする場合、単に記念碑に記された内容だけでなく、記念碑が立てられた背景、記念碑に記された「災害の記憶」がその後どのようにして受け継がれていったのか、こうした点を地域の歴史に位置づけながら、明らかにしていく必要がある。

災害の記憶をどのような形で後の世代に残すかということですが、それにも、色々な形がありますね。
災害に限らず、歴史に残るものの中には口伝というのも数多くあるかもしれませんが、それだけで後の世代に記憶を残すというのは難しいことですし、基本的には文字であれ造形物であれ、「目に見える形」で残されることがほとんどでしょう。

で、記念碑ではありませんが、私がこの種の話題で最近気になっていたトピックは、「東日本大震災で被災した校舎を保存するか解体するか」ということでした。
このブログをお読みの皆様の中でも、すでにご存じの方もいるかもしれませんが、現地では地方選の争点にもなったということです。
ここでは関連記事だけリンクを貼っておき、内容については本エントリでは詳しく触れないことにしますが、皆様はどう考えますでしょうか?

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