「知識」と「考え方」


子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。
(子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し。)
(『論語』より)


皆様こんにちは。新年度になりました。
お気持ちも新たに、お仕事やお勉強に励んでいることと思います。

私も社会人として2年目を迎えたわけですが、そんな4月の最初の更新。
どんな記事を書こうかと考えた結果、今回はこの引用です。
中学や高校の漢文の教科書でも取り上げられることが多い、超有名な一節ですね。

よく、今の時代は「応用能力」とか「課題解決能力」が問われるということが言われます。
ちょっと過激な方に言わせてみると、
「時代はそんな風になってるのに、未だに暗記力ばっかりが突出した応用思考能力ゼロのアホどもが官僚だの大企業の社長だの偉い先生といわれるような職業だのをやってるから、日本はおかしくなったんだ」
とかいうことにもなるかもしれません。

まあ、その主張が正しいかどうかは脇に置いときまして、今回は以下のような話にもっていきたいと思います。

皆様にもし、「こういった『応用能力』がより問われるようになったのはなぜか?」
ということを質問したら、一番多いであろう回答は、間違いなく、
「今時、これまで基礎知識として覚えていたものは簡単にネットで調べることができるようになったからだ」
ということだろうと思います。
私も、ある面からみれば、これはまあ間違っていないと申し上げましょう。

しかし、です。
「では、ネットで調べれば簡単に情報が手に入る時代だとしたら、本当に頭の中に知識として蓄えているものなんて役に立たなくなりますか?」
と聞かれたら、どうでしょうね?
正直、私は「そんなことはない」と断言しますね。

要は、ネットにあるような情報って、収集は楽でも整理するのが難しいんですよ。
私のブログで、前回、黒田先生の歴史講座の参加報告を書きましたが、
科目としての歴史に限らず、私たちが何かを「学ぶ」というときには、その学ぶものは先人の発見がもとになっているわけです。
特に「偉業」と言われたものになると、
その時の時代背景とか、何が足りないものだったとか、その先人はどういう試行錯誤を繰り返していたか、
などを深く掘り下げる。
そうやって、体系的な「知識」として身につけることで、「応用思考」とか「課題解決」のための材料にもなる。
でも、ネットで簡単に情報が調べられるようになると、そういう掘り下げ方をして、そして整理するという意識がどうしても薄れますし、よしんばきちんとそういう意識を持っていたとしても、(通信費以外は)無料という場で得られる情報量なんてたかが知れている。
というわけで、本を買って読むことであれ、実際に現地での体験や人からの見聞をすることであれ、それだけ時間とお金をかけて学ぶことには、私は十分な価値があると思うんです。

しかし、そうやって先人たちの功績を「学んだ」からといって、その猿真似をすれば何でもうまくいくかというと、いうまでもなくそんなことはほとんどあり得ません。
過去の人たちのやり方でダメだったものも自分がやればヒットすることはあるでしょうし、逆も然りです。

そこで、「思ふ」の部分が「学ぶ」と同等に重要になるわけですが、ここで1つポイントになるのは、
少し前に取り上げた「違いを意識する」ということでしょう
そして、過去の方々が功績を生み出した状況と今の自分のそれを比較するときには、「相違点」だけではなく、「共通点」も抽出すると、さらに良いかと思います。
そうやって知識として得たものを応用とか課題解決とかに生かすことで、自分の「考え方」の型っていうものができるんではないでしょうか。

これは間違いなく、最終的に試行錯誤がいろいろ必要になる部分ですが、
要は、学んだものを体系的に頭に入れておくことで、「試行錯誤をする場」自体のレベルを上げることは可能だということでしょうね。
正直、私も職業柄の割には、これまであんまり意識していなかったことなのですがね…w

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