皆様こんにちは。ピースです。
先日、都内が荒天だった日は、勤務先付近でも、大粒の雹が降りました。
天気の急変しやすい時期なので、くれぐれもお気を付けください。
そして、繰り返しになりますが、激甚化する水災害への対応も急務です。
さて、前回の続きです…が、その前に。
この参加報告、今回までの2エントリにするつもりでしたが、意外と取り上げたいところが増えてしまったので、3エントリにします。
というわけで、今回は3.元寇で見せた「鎌倉武士の意地」を取り上げます(ここが、私自身が取り上げるのは本流とは若干離れたところなのですが、意外と長くなりそうだったんです)。
我が国は有史以来、他国からの侵略をほとんど受けたことがないという稀有な国家ですが、悠久の歴史の流れにおいては、20世紀の大東亜戦争のみならず、それ以前にも存亡の危機を戦い抜いた事実も存在しました。いわゆる「元寇」のことです。
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我が国が周りを海で囲まれているということは、皆さんもよくご存知の通りですが、こうした「天然の防壁」を持っていた地理的環境が、中華大陸などほかの勢力の侵略を受けるという危機から長い間我が国を守ってくれたと言えるでしょう。
しかし、その環境には、「朝鮮半島に『強力かつ大陸の帝国の言いなりにはならない』独立国家が存在する」という条件がありました。なぜなら、大陸の支配者が朝鮮半島を自己の所有とした場合には、半島を経由して我が国を攻めやすくなってしまうからです。—
我が国は、朝鮮半島を緩衝地帯として巧みに独立を守り抜いてきたのですが、朝鮮が完全に他国の支配下に入ったことで侵略を受け、亡国の危機に立たされるという時期も存在しました。それこそが元寇だったのです。
前回、私は、本講座全体の感想の中で、
日本という国の独自性を生み出している歴史的背景の一つは、「他国からの『侵略』と言える行為を受けたことが極めて少ない」国であることだと言われますね。
その「日本が受けた他国からの侵略」というと、義務教育レベルで習う歴史の範囲だとほぼ唯一と言えるのが、この「元寇」でしょう。
と書きました。
ここで申し上げたいことは、この講座はもちろん「日本史」の講座ですが、上記の「歴史的背景の一つ」を生み出している要素も、やはり「地理的背景」がかかわり、そして本講座でももちろん取り上げられた、チンギス=ハーンとその孫のフビライ=ハーンによるアジアから東ヨーロッパの統一、そして「元」という国家の誕生に至るところは「世界史」の分野にあたります。
ということで、第59回「東條英機」の報告にも申し上げた、「『歴史に学ぶ』を実践するためには、様々な知識を俯瞰し、リンクさせることが大事になる」という話が、ここでも生きるわけです。
そして「朝鮮半島」と言うと、いかにも「そこを取り上げると、いかにも政治・社会系でこのブログにいらっしゃった方は一気に集まってくる」という要素だと思われますw
まあ、講座前半の新羅統一の背景とその新羅の「二枚舌外交」の話もありました(前回はその部分は省略しましたが)し、近代に限らず、良くも(?)悪くも、この「隣国」が日本の歴史に与えて来た影響は計り知れませんね。
で、その朝鮮半島は高麗の使者がフビライの国書をもたらし、わが国に服属を要求したのですが、これを幕府が突っぱねたことで、皆様ご存知の通り、「文永の役」と「弘安の役」という二度にわたる侵攻を受けることになった、ということです。
以下は、その始まりの箇所から引用。
さて、再三送った使者を追い返されて激怒したフビライは、1274年10月に高麗兵を併せた約3万の兵力で、我が国の領土である壱岐・対馬の両島に襲いかかりました。
わずか数百人の人口しかおらず、かつ武装もしていなかった両島の人々は、突然現れた元軍兵や高麗兵になすすべもなく蹂躙され、ありとあらゆる暴虐を受ける運命にありました。
しかし、その中で多勢に無勢を百も承知で、敢然と戦いを挑んだ対馬の武将もいました。その名を宗助国(そう・すけくに)といいます。助国は元軍の来襲を知るや、直ちに博多に早船を送り、急報を受けた大宰府は、夜を徹して早馬を鎌倉へ向かわせました。
宗助国ら八十騎の武士たちは、後に続く者を信じて、雲霞のような元の大群に斬り込み、壮絶な玉砕を遂げましたが、元軍を迎え撃った際に、助国の一族郎党全員が顔に笑みを浮かべていたと伝えられています。
助国たちは死に臨んで、なぜ笑みを浮かべていたのでしょうか。実は、同じように笑みを浮かべて国のために尊い生命を散らした人々がいました。大東亜戦争における神風特攻隊の隊員の皆さんです。
特攻隊員の方々のエピソードの一つとして、出撃直前に撮影された写真が知られていますが、十数名の若き隊員たちは、全員が微笑みを浮かべています。出撃の約一時間半前に素晴らしい笑顔を写真に留めた彼らは、異口同音に「いまここで死ぬのが、自分にとって最高の生き方だ」と語っていたそうです。
13世紀の元寇から20世紀の大東亜戦争まで、700年の時空を超えて共通する、死地に赴く際の微笑みは、いったい何に由来するのでしょうか。それは、日本人の「たとえ我が身は滅んでも、魂は決して死なない」と思う死生観に由来しているのであり、いわば「悠久の大義」に生きたゆえの微笑みなのです。
だからこそ、助国たちや特攻隊員の方々は微笑みをたたえて死地に赴いたとともに、平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災の際に、一人でも多くの生命を救いたい、ただそれだけのために、危険を顧みずに現地へ向かわれた多くの自衛隊の皆さんの行動に対して、多くの日本人が、心の奥底に眠っていた大和魂の精神を目覚めさせたのです。
私が考えたことを、(順番通りではないですが)3つに分けて書いてみましょう。
1つ目は、最後の段落についてです。
もちろん、私自身も「現場の方々」に対する感謝の念は絶対に忘れてはならないということで、シリーズとして書き始めた(けど、また更新が遅れそうなw)九州水害の話題もそれについて触れる予定です。
そちらについては、水害ですし、また私自身も河川や水防災が専門の人間なので、おそらく「水防団」を中心に書くと思います。
が、その「現場の方々」の筆頭に当たるのは、やはり「『軍』と呼ばれる組織と同等の自己完結性を有する」自衛隊になるわけです(なので、予定にしている引用元の産経新聞の記事も自衛隊の活動に関する写真が載っています。)
2つ目は、「神風特攻隊」の話について。
私は中学校の時、校外学習(もちろん鹿児島で泊まりがけです)で知覧特攻平和会館に行きました。
(中学から私立の6年制校に通っていたのですが、ここは「日教組の強いところは、全くではないけどあまり行かない」という話をよくお聞きします。)
まあ、当時はそこで学んだことについては深く自分の考えを持つということもなかったのですが、(もちろん、左右の立場は関係なく、)「現代の価値観で、当時の日本人のやったことを評価することは出来ない」という、今でこそよく言われるようになった考え方は、この時からどこかで芽生えていたのでしょうね。
3つ目は、「日本人の死生観」についてですが、上記のような話もあり、直接的に取り上げるのはやはり畏れ多い内容なので、ちょっと違う方向から。
私は、先ほどもリンクを貼った第59回の報告の続きで、「21世紀型の『戦火を交えない戦争』は、(20世紀型のそれである)『経済戦』に、『情報戦』という新たな要素が加わるのではないかと考えている」と申し上げました。
私自身、このブログでこういう話題を取り上げている者ということで、見方によってはもう、この「情報戦」の先陣を切っている人間と言えるでしょう。
それで、今の私に、
「たとえ我が身は滅んでも」(この場合、「滅ぶ」というのは肉体的・精神的・社会的、いずれに関しても当てはまると思いますし、あるいは「このブログが(閉鎖するなりサイバー攻撃でやられるなりして、形としては)無くなっても」という言い換え方もできると思います)、
「魂は決して死なない」(これは、もちろんこのエントリを中心として、書いた文章すべてに込められた「魂」ということですね)
と言えるか?
という「自分への問い」が出来たんですよ。
そして自問自答なのですが、いやはや、これは私も、まだまだ言えないです。
でも、だからこそ、「ほかの誰でもない、私にしか書けない」文章を書くために、日々自分を磨くモチベーションを保ち続けられるんだと思います。
というわけで、次回は弘安の役(ズバリ、「神風」の箇所ですね)の話から、本講座の最後まで。
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