18歳選挙権(2)ー「選挙権」に対応する「義務」とは

皆様こんにちは。
前回の終わりの感じから、もっと早く更新するだろうという雰囲気が見えていたかもしれませんが、投票日前日の滑り込み更新になりました。

もう明日に投票が控えていますが、このブログをお読みの皆様に、お願い2つ。
丸々前回のコピペですが、超重要事項だと考えていますので、もう一度書きます。

  1. 投票には必ず行き、そして自分の考えで投票先を決めてください。
  2. 消費税増税延期が主な争点だった前回の衆院選のとき、テレビや新聞のほとんどは、
    選挙前には「大義のない解散だ」とか言っていたのに、選挙結果が出ると「投票率が低いから民意をきちんと反映していない選挙結果だ」とか言っていたのを、私は良く覚えていますし、本ブログを以前からお読みの方ならば覚えていらっしゃる方も多いと思います。これだけを取り上げれば、「ダブルスタンダードも大概にしろよ!」って言うお気持ちになられる方も多いのではないでしょうか。
    でも、間違いなく、組織票の影響が強くなれば都合がいいと考えている人間に、大マスコミの中の人も含まれているからこそ、
    彼らは「政治なんて誰がやっても同じ」という空気を作り出して、投票率を下げようと目論んでいるわけです。

  3. 参議院の比例代表は、個人名で投票してください。
  4. 皆様ご承知の通り、参議院の比例代表は「非拘束名簿式」です。
    衆院選のように党名しか書けない拘束名簿式と異なり、そこに出馬している個人を応援したくても個人名が書けないという問題はありません。
    じゃあ、この方法の問題は何か?といいますと、
    ほとんどの方は概ね感づいているとは思うのですが、政策立案に必要な能力とか関係なく、知名度だけで当選する人間が数多く現れる、ということです。
    まあ、個人的には、芸能人とかスポーツ選手とか、そういう人間を一番利用しないのがあの共産党という時点で、「この国はいったいどうなってんだ」という気持ちにさせられますが、そんなことをここで愚痴っていてもしょうがないですから…

私は今まで、本ブログでは「誰に投票してください」ということは一切言わないという方針で来ましたし、今回もそれは申し上げません。

ですが、以上のような今の日本の自堕落な状況を少しでも打開するためにも、自分の考えで一票を投じる方、そしてきちんと政策で判断しようとされる方が増えればと思います。

では、本題です。
今日は前回の最後に述べたとおり、選挙権について「年齢以外の面から」考えるわけですが、

リンク先のエントリで私が着目していたのは、「国民の権利及び義務」でした。
(内容については、興味ある方だけ読んでいただければ結構ですが、今回、「改憲派」の議席数が焦点になっていますので、ちょうどいい機会かと思います。)
というわけで、今回はタイトルの通り、「選挙権」に対応する「義務」とは何(であるべき)かについて考えてみたいと思います。

その手掛かりとして、ここでは日本の選挙権の歴史を追ってみますが、もうこれは、皆様も小学校でも習っていると思います。
大日本帝国憲法が発布されたばかりの時は、「直接国税15円以上を納めている25歳以上の男子」ということで、選挙権を持っているのは当時の国民の1%と言われています。
その後、「25歳以上の男子」⇒「20歳以上の男女」、そして今回の参議院選挙から18歳以上となりました。

ここで、年齢については前記事で概ねお話ししました。
そして、性別も年齢と同じく属人的な要素ですので、ここでは考察の対象から外すことにしましょう。
となると、残るのは必然的に、「納税額」です。

私は「明治時代の15円」が、今でいういくらくらいなのかははっきり言って知りません。
(お詳しい方いらっしゃいましたら、本ブログでも転載先の各SNSでもいいので、コメントで教えていただければと思います。
といっても、多少調べればわかることかもしれませんが…)
ですが、国民の1%までに絞られるレベルとなると、どんな職業であれ、それなりに責任のある立場の方でないと無理だという想像はできますよね。
現在の国民の3大義務にもある「納税」ですが、それくらいのレベルの税額を納める方ということであれば、その中のもう1つ「勤労」というのも、必然的に満たされているべき条件になるでしょう。

では、こういった納税あるいは勤労の義務を参政権の対価とする、という方向性自体が、果たして「普遍的に」間違っていたものといえるでしょうか?

これは断言させていただきますが、そんなことは絶対にいえません。

別の切り口から考えてみると、「20代になっても学生を続けて、払っている税金は間接税程度という人と、自分の生活は自分で何とかしたうえで、国にも地方にも多額の税金を納めている人が持っているのが同じ一票」というのはおかしい、ということだって、正しいかもしれないわけです。
(言い換えると、「『公平』と『公正』の違い」というのは、皆様どこかで聞いたことのある話かもしれませんが、普通選挙制というのは「公平」ではあるかもしれないけど、「公正」かどうかはまた別の問題、ということでしょうか。)

ただし、それでは、
現代の日本で、(必ずしも全国民の1%というレベルまでではなくとも)納税額、あるいはそれに代わる「勤労の実績を示す何か」で選挙権を与える国民を絞る、という方法は、うまくいくと考えますか?
と聞かれると、どうでしょうね?

私は「うまくいかないだろう」と答えます。

そう考える根拠は、何か?
「現代の日本は当時より、良くも悪くも自己責任の社会になったから」です。

まず、若い世代の方から見てみます。
高校~大学生なら、生活費に関してなら、親から経済的なまかないを受けてはいるかもしれませんが、
それでも個人主義が進んで、家族含む他人に踏み込まれる部分が少なくなった代わりに、自分の問題は自分で処理しないといけなくなった部分は増えたわけです。
それなら、「将来、どんな候補者が議員になれば、日本が住みやすい国になるか」ということを考えるのも、結局そんなに多額の税金なんて納めていない若い世代からも重要視されるんじゃないだろうか、ということですよ。

次に、この「自己責任」を別の切り口から、
つまりは「当時でいう15円以上もの国税を納めることができた、1%のエリートたち」の方に目を向けてみますね。
そうすると、今ほど「自己責任」ということが言われなかった当時は、こういう人たちこそが、「後の世代をどうしていくか」ということに強い関心と情熱を持っていたと思うんです。
もう一つ付け加えると、こういう人たちって、「お金をいただくのは、労働で付加価値を創っていることへの対価だ」という意識が、今よりも強かったのではないだろうか、という印象を受けるんです。(「汚く儲けていた」タイプの人間が全くいなかったというわけではないでしょうが、今よりは少ないと感じる、ということですね。)

正直、この程度の記述なら単なる個人的印象ですが、もっと掘り下げれば、このブログをお読みの方の多くが問題にしている、教育の違いとか、そういうところにまで行きつくんだと思います。
ここまで文章にしたところで、最初のお話に戻りましょう。

選挙権に対応する「義務」は、(納税額、あるいはその他の「勤労の実績を示す何か」ではないとしたら、)何であるべきか?

これが、私の回答です。
「自分の置かれた立場の中で、世の中のことをできるだけよく知識として身につけ、そして(必ずしも100%理解してもらえる内容ではなくてもいいので)自分の考え方を示せるようになること」

これは、憲法をはじめとする法文として入れるには非常に判断の難しい内容だと思いますから、私はそんなことを主張するつもりはありません。
ですが、これには前回の話ともつながる部分があるんですよ。

前回、私は「『自分の考えで、きちんとした政策の理念とそれに基づいた具体案を示す候補者に投票する』ということができる潜在能力は、若者にだって十分ある」ということを申し上げました。
この潜在能力を生かすにはどうしたらいいか、ということですが、それには
「『人の精神年齢はおおよそ働いた年数に比例する。』とか言う奴らもいるけど、それがどうした!?確かに親の世話になる期間が長かったかもしれねえけど、その分だけ俺(私)は!」と言えるくらい、
まさに「知識として身につけ、そして自分の考え方を示せるように」努力すること、これに尽きると思うんです。

私も学生でいた期間がかなり長い部類ですが、そんな私と同じくらいか年下で、(前回言った「1次ソースを活用する意識」に加えて)こういう気概を持っている方が少しでも増えれば、日本は本当にもっともっと良くなると確信しています。
そして、今このブログをお読みになっている方には、間違いなくそれだけの人間になれる資質が十分にあると断言します。
そのためにも、もう明日には投票なので、今から色々やるというのは流石に無理ですが、今回に関しては最低限、自分の選挙区の各候補者のWebページくらいは目を通してから、投票所に向かうようにしましょうね。

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余談:
主に民主党政権の時ですが、「外国人参政権」が話題になりましたね。
反対されていた方の論拠の1つとして、
「賛成派は『日本に住んでいる外国人も納税はしてるだろ』というが、納税はあくまで『インフラを享受するための義務』であって、参政権のための義務ではない。
参政権を持つ条件はあくまでも『日本国籍を保有していること』であるべきだ。」
ということが言われていたのを、よく覚えています。

私も、これについては2文ともに、非の打ちどころのない正論だと考えています。
ただ、1文目に関しては、この記事を書いてみて、「日本でも過去にはこういう時代があった」ということを意識しているのとしていないのでは、結構受け取り方が違うのではないかなあ、という気がしているんですよね。

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