皆様こんにちは。今年もノーベル賞の受賞者が出ました。
大隅良典栄誉教授、これまでの受賞者に負けず劣らず素晴らしい方ですね。
このブログで理系脳とか思いっきりアピールしている人間としても、早くこの話題は記事起こしをしたいのですが、これは次のエントリに回します。
本題は久しぶりに、そこそこ本気度高めな言論系の話題。
まずは、こちらの記事をお読みください。
今日はタイトルの通り、このリンク先の記事を逆からとらえた話です。
「多様性」というと、英語でも実は結構色々な訳語があるのですが、ここでいう文脈にあてはまる単語は、まさにタイトルにもある、ダイバーシティ(diversity)ですよね。
ダイバーシティ多様な人材を積極的に活用しようという考え方。性別、人種のみならず年齢、性格、学歴、価値観などの多様性を受け入れ、広く人材を活用することで生産性を高めようとするマネジメント
これは私がつい最近受験したITパスポートの参考書ということで、「マネジメントにおける考え方」ということで定義されていますが、実際にはそれに限らないカタカナ語として使われていますね。
さて、ツイッターやFBなどで、愛国・保守といわれる方に結構見られるのが、「多様性、ダイバーシティなんて考え方は糞喰らえだ!!」という感じの意見です。
もちろん、これには部分的に正しい所もあるかもしれません。
実際、どのレベルまで多様性を認めるか、という基準がしっかりしないから、歴史的にはほぼ失敗例ばかりの「大量移民」なんていう愚策を言ったりする人もいるわけです。
ですが、ここでは以下の2つの面から、「『多様性』を全否定する前に、ちょっと考えてほしい」ということを述べてみたいと思います。
1.「健全な環境/社会を形成する」という面から
私は「土木系技術者」と書いていますが、大学院は純粋な土木工学ではなく、主にアセスメントとか生態系とかを扱う環境系の専攻でした。(これは、前にも申し上げた覚えがありますが)
そういう立場の者として言わせていただくと、この「多様性(diversity)」という言葉で最初に思い浮かべるのは、やはり「生物多様性(biodiversity)」です。
では、「生物多様性がなぜ重要か?」といわれると、どうでしょうか?
これは上に述べたような「人材に関する多様性」よりも、わかりやすいと思います。
要は、より多くの種によって環境が形成されるほど、その環境はより健全になるということですね。
例えば「循環」とかいう話がそうですが、Aという生物種が排泄する物質が、Bという種の摂取する物質になる。そしてB種の排泄物が…ということの繰り返しから、どこかで「A種の摂取する物質」に戻ってくる。
こういう循環が多く形成されているほど、その環境は安定するわけです。
(まあ、他にも色々ありますが、それについて詳しく知りたい方はWWFの特集ページなどをご覧ください。)
で、これは循環の例とはちょっと違いますが、本来なら「色々な考えを持っている人達が、お互いにいい意味で刺激し合い、そして補い合う」ことができるからこそ、健全な社会、あるいは言論が形成される。
私は、この点では「人の多様性」も「生物多様性」と共通していると考えます。
言いたいことは、これで概ね分かったのではないでしょうか。
まさに、多様性を欠く、よく使われる例えで言うと「金太郎飴」みたいにどこを切っても同じ主張ばっかりな人間の集まりが、パヨク(=日本人、外国人を問わず、日本に住んでいる恩恵を受けていながら日本を貶めることしか頭にない方々)ですよ。
彼らは「憲法を守ろう」とかいっていますね。
でも、私は「あなた方は米国を異様に敵視しているけど、現憲法はその米国の組織であるGHQが制定したものです。それについてどうお考えですか?」という問いに対して、彼らのまともな回答を聞いたことがありません。
あとは、「憲法には『平和を愛する諸国民』とありますが、今もって拉致被害者を返そうともしない国とか、領空領海侵犯をことあるごとにやっている国のどこが『平和を愛する諸国』なのか?」とかですね。
でもこれは、一歩間違えれば「真正日本人を自負する方々」こそ、「あまりに論理が単一化してしまうと、これに近いレベルの二重基準をやりかねない」という反面教師でもあるんですよ。
だからこそ、私はそんな方々には、「色々な考えを持っている人達が、お互いに刺激し合い、補い合う」という考え方を大事にしてほしいと考えています。
2.「日本という国のかたち」という面から
ここまでをしっかり読まれ、そして以前から私のブログをお読みの方なら、もう以降の内容には察しがついたかもしれませんね。
ここで言いたいのは、ズバリ「日本は多神教国家だ」ということです。
面白い体験をしたことがあります。クリスマスのころにイスラム圏の方と東京の表参道を歩いていました。通りはすっかりクリスマス風に飾られています。イルミネーションも大層きらびやかでした。その時、私が「日本人はキリスト教徒でもないのに、こんなにはしゃぐのよ」と言ったのです。すると、彼女が「それが日本の良い所じゃない!私の国なんてイスラム教以外のことをしたら殺されかねないわ。こんなふうにキリスト教だろうが仏教だろうが神道だろうが、みんなで楽しく盛り上がれるのは素晴らしいことよ」と言ったのです。なるほどと思いました。日本人の寛容な精神というのは、現在に至るまで、健在なのですね。
この櫻井女史の著書からの引用を挙げるまでもなく、日本でも、「クリスマス」と「バレンタイン」は(「それぞれ今上陛下の誕生日と建国記念日という『日本という国にとって一番重要な日』にも近いのに、その辺はそっちのけで良いのか?」という意見はあるかと存じますが、この話はさておいて)もう十分認められました。
さらに、この季節になると話題に上がる「ハロウィン」に関しても、もうそういう傾向がみられると思います。(確かに、渋谷とかで最低限のマナーすら守らずに馬鹿騒ぎする連中は後を絶ちませんが、私は「そういう人はごく一部で、ハロウィンの普及に貢献している大多数の方はきちんと異文化を尊重する心を持っていらっしゃるだろう」と信じています。)
そして、キリスト教以外に日本に根付いたもう一つの外国産の宗教が、引用元にもある「仏教」です。
仏教については「なぜ『神』と『仏』は区別されるのか」とか、あるいは「『神仏習合』とあるが、なぜ神道と一番親和性がある宗教が仏教だったのか」とか、そういう視点で見ると面白い考察ができるかもしれませんが、それはまた機会があれば本ブログで取り上げるかもしれません。
ともかく、ここでは「寛容な精神」という言い方がされていますが、2600年以上という期間、日本という国の形が受け継がれてきた鍵の一つが、この「多様な価値観を認める文化」にあるということは間違いなく言えるでしょう。
もっとも、「本当に『多様な価値観など認めない』という、宗教でいうならまさに『カルト邪教』のような連中とも対峙しなければならない」というジレンマがあり、そして「どうやってそういう連中に対峙していくかが、今の日本の課題だ」とも言えるわけですが。
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