土木史のお話-土木学会誌より(1)

皆様こんにちは。だいぶ不快指数が上がってきた感じがしますね。
今度は函館でも地震がありましたが、一方で、関東では取水制限が話題になっています。
春先に雨が少なく、またこの梅雨も空梅雨になるような感じで言われており、水不足対策をどうするかが課題です。

さて、本題についてですが、

先日、山口采希さんのライブの参加報告で記事起こしをした時に、「『先人の思いを受け継ぐ』と一口に言っても、それには今に生きる人の数だけ形があるということを思わされた」と書きました。
そして、その次の記事では「時間と空間を旅する」というテーマを、どちらかというと「時間」の方に重きを置いて文章にしました。

それらを踏まえて、今日からは、「土木史」に関するお話をしてみたいと思います。
引用元はタイトルにある通り、『土木学会誌第101巻第4号』(2016.4)からです。
取り上げたいところが結構多い上、ほかに早めに文章にしたい話題がもう一つあるので、分割更新で間にそちらを挟みながら、ということになると思います。

その中でも、今回は高橋裕東京大学名誉教授による「第1回・土木史サロン 特別講演 土木史的思考の意義と役割」からの引用です。


土木学会に土木史研究委員会ができ、毎年シンポジウムを開くなど隆々としていることは、誠に喜ばしいことです。
実は私が理事の時代、広報委員会や土木史研究委員会をつくることを理事会に提案したときは、非常に評判が悪かった。大学の先生がたは「工学に歴史は必要ない」、「土木史研究委員会など聞いたことがない」とおっしゃった。一方で民間の理事の方々は、「土木学会の財政にどれだけプラスになるのか。金がかかるだけだろう」と懸念を示された。大方の理解を得られず、難産でしたね。


言うまでもなく、学部の卒業研究および大学院の研究でも、過去の論文を参照し、自分の書いた研究論文の巻末にリスト化するという手順を踏みます。
これはまさに「自分の専門分野の歴史を勉強する」と言い換えることができますね。
もちろん、前記事で取り上げた113番元素も、それまでの元素の発見の歴史をもとにして、気の遠くなるような試行錯誤の末に新たに発見されたものというわけです。

ただし、土木分野の歴史に関しては、なんとなくですが「論文を読むだけでは学べない」部分が多いような気がしますね。
というのも、私が大学学部だった時には、文系科目でも「科学史」とか「技術史」という言葉がついた科目をいくつか受講していましたが、それらの中では、純粋な土木分野の守備範囲ではなくとも、インフラにかかわる部分が多く取り上げられていたような覚えがあります。
何百年という時間単位で年代をさかのぼる必要があるとなると、ネットで公開されるような学術論文による掘り下げだけではなかなか難しいと思います。
そして、この分野独自の幅の広さということもあって、講演者の高橋先生には、「個別の専門を深く掘り下げていくだけでは、どうしても限界がある」という意識があったことが(この後の文章からも)伺えます。


大河津分水の工事では多くの技術者が貢献しましたが、主導的役割を担ったのは、1931(昭和6)年に完成したときの内務省新潟土木出張所長、現在でいえば国土交通省北陸地方整備局長であった青山士(あきら)と、現場の監督だった宮本武之輔です。この二人は、当時の日本の土木技術者として傑出していた。技術はもとより、自分の人生の中で土木事業をどう位置づけるか、あるいは民衆にとって土木がどんな影響を与えるか、という考え方が素晴らしいのです。


実は、青山士と宮本武之輔については、本ブログのメイン記事における参考文献「土木人物アーカイブス」の紹介で、名前だけは取り上げていました。
最後の一文からわかることですが、こういうところに技術者として名前が残る方と言いますのは、えてして「専門バカ」ではないんですよね。
(そんなに簡単な区別はできないだろうという認識は持った上で私見を述べますと、そこが「科学者」と「技術者」の違いの一つなのかなあ、ということも感じました。アインシュタインを一例として、科学者は比較的尖った人間でないと歴史に名前が残るような功績をあげることは少ないと思います。)

というわけで、青山士と宮本武之輔という二人の技術者の考え方とその功績についても取り上げてみようというわけですが、続きはまたエントリを改めて、ということで。

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